ライターが心に刻みたい、言葉は他人の物になるという事実

ライターが心に刻みたい、言葉は他人の物になるという事実

コミュニケーションは、受け手が決める

これはわたしが、コピーライター駆け出し時代に教わった言葉です。誰かに言われたのか、もしかしたら何かで読んだのかもしれませんし、なんとなく自作の記憶もあります。

いずれにせよ、他人とのコミュニケーションにおいて、わたしがいちばん大事にしている考え方なんです。

わたしが大事にしているからといって、みなさんのお役に立つのかわかりませんが、ひとつの考え方として読んでいただければ幸いです。

文章作成を生業にしながら、なんとか15年以上やってきたわけですから、これからライターとして活躍したいと思っている方々のヒントくらいになればと願って。

コミュニケーションは誰のもの?

コミュニケーションとは当然のことながら、書いて伝えることだけに限定はされません。人と人が意志疎通することをコミュニケーションと呼ぶのならば、話をすることも、見つめ合うことも、触れ合うことも、もしかしたら匂いをかぐことも、ときには無言であることすら、その範ちゅうだと思うのです。

一方的でも、それはコミュニケーション

いかなる方法だとしても、コミュニケーションというからには相手がいて成立します。ただ、難しいなと思うのですが、コミュニケーションは一方通行の場合が存在する。確かに、コミュニケーションの成立をゴールにしたならば、相手の同意なり反応があって、インタラクティブでなくては役割を果たしていません。

でも一方的に言葉を放つ行為も、コミュニケーションであるには変わりないと考えています。人を傷つける言葉を投げつけるときが、一方的なコミュニケーションの一例です。逆に、隣に誰かがいたとしても、寝言についてはコミュニケーションではないと定義させていただきます。寝言で意思疎通を図れる人、そうそういませんからね。

双方向コミュニケーションは、相手ありき

一方的であっても双方向型であっても、受け取り手がいるのであれば、その向かう先は共通だと思っています。言葉を発した(書いた)先に、それを聞いた人や読んだ人がいれば、すべてのメッセージは彼ら・彼女らに届けられるはず。

届けられると書くと、ポジティブに、意図通りに伝わった状態を想像するかもしれませんが、ここでは「届けた」という発信者の行為を表しています。『伝える』と『伝わる』は別問題、ということですね。

言葉は、あなたの元を離れていく

しかしながらこの『伝わる』というのは、コミュニケーションにとってはクセ者だと常々、思ってます。果たして本当に、発信者の思惑通りに伝わったのでしょうか。あなたの望んでいた通りに、相手は受け取ってくれたのでしょうか。

メッセージを伝えたい相手が目の前にいて、自分では思っていた通りに言葉を発したとしても、コミュニケーションの解釈はあなたが決めることではありません。受け取った相手自身が、言葉の意味や言外に潜んでいる(かもしれない)意図を汲み取って、解釈するものなのです。

もしかしたら裏読みをし過ぎる受け手かもしれませんし、ねじ曲がった解釈をする人かもしれません。気を使い過ぎる相手であれば、忖度につぐ忖度を重ねて、こちらの想像の遥か上空をいく反応があるかもしれない。

相対して言葉を伝えたとしても、伝わり方は発信者にコントロールできるものではないのです。言葉を発した時点で、それは受け手の物になる。たとえあなたが、どれほど頭を悩ませて絞り出した言葉であっても、届けた瞬間に自分の影響範囲を離れていくのです。

文章作成、基本の「き」

言葉を発信する仕事を長いことしてきましたが、「怖いな」と感じることがあります。先述した通り、言葉は発信した時点から自分の手元(口元)を離れて、受け手の物に変わるわけです。

受け手の視点で、自由な解釈がなされることになります。「自分の思ったことを言葉にしたんだから、好きなように使いたい」と思っても、他人の心を操作するのは至難のこと。想定と真逆の意図に伝わる可能性もあるんですから。

発信した言葉は、自分の元から離れていく。コミュニケーションの受け取られ方は操作できない。望んでいない受け取られ方もする。悲しいかな、これがコミュニケーションの真理なんだと思っています。

では自分が言葉の発信者になるとき、少しでも正確に想いを伝えるためにできることは何があるのでしょうか。

情報の発信者が負う、責任と自由

大切なことを忘れない。これが唯一、発信者にできることだと思っています。言葉は自分の元を離れて、他人の物になること。どんな解釈をするかは、受け手に委ねられること。伝達の基本の「き」、コミュニケーションは受け手が決めるを忘れないこと。

発信者が自由な意思で放った言葉には、責任があります。飛び出した言葉は受け手の裁量で評価される運命にあり、その批判を受け止める責任もあると思うのです。

「そんなつもりで言ってない」は通用しませんし、「僕が書きたかったのは、こういうことなんだもん」と鼻息をフンハーしながら反論したところで、受け手に伝わっていなければ意味がありません。誤解されたとしたら、発信者にもいくらかの落ち度があると思うんです。ちょっとマッチョ過ぎる考え方かもしれませんけど。

炎上も良し、はコミュニケーターの恥?

最近、いや、ずいぶん以前からですが、発言が炎上してしまう人がいます。政治家や有名人が、報道陣の前で謝罪するシーンをテレビで目にすることがしばしば。

この記事を書いている今日には、自称クリエイターの『はあちゅう』さんのTwitter発言が燃えていました。彼女の場合はつい先月、『#MeToo』関連でも盛大に燃料を投下したのが記憶に新しいですね。

今回の餌食となったのは、


ミュージシャンの岡崎体育さんが導入した、「bitfan」というファンクラブの仕組みに対するツイート。bitfanを平たく言うと、グッズ購入などにお金を払ってくれたファンを優遇する仕組みです。岡崎体育さんが導入したbitfanに賛否両論、むしろ否定的な意見に対して、はあちゅうさんがツイートしました。

これをコミュニケーションとすると受け手は、岡崎体育さんのbitfan導入に批判的な意見を述べた人たち。彼らに対してはあちゅうさんが届けた言葉が、批判にさらされたわけです。

はあちゅうさんの意見にも賛否がありますが、一個人の意見としてあーだこーだ言うことではないのかな、と。しかしコミュニケーションの基本を考えると、誰が否定的な反応をするかは想像できたはず。特に炎上後に『言い訳』のようなスレッドを立てたのは、コミュニケーターとしては上手くなかったかなと思いました。

SNSでの発言ですし、個人の考え方なので、外野がわいわいする必要があるのかは別議論。言いたいことも言えない、ポインズンな世の中になるのは寂しいですからね。

あくまで「コミュニケーションは受け手が決める」から、いろいろな取られ方をするし、「そんなつもりじゃない」「分かってくれない人が●●」とか言っても仕方ないですよねの例として、はあちゅうさんを引き合いに出させていただきました。

受け手のせいにしても進歩はないですし、一円にもならない。他人を変えるよりも、自分が変わる方が早くて確実ですしね。大切にしたいわたしの中の金言「コミュニケーションは、受け手が決める」。現場からは以上です。

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