日本語は変化するものであり、乱れていると嘆くことではない
ライターという仕事をしていると、正しい日本語を扱える人物だと思われることが多いです。できればそうありたいと思っているものの、はて、正しい日本語ってなんだろう? と疑問を持つこともしばしば。考えた末の答えとしては、「発言なり文章なりの言葉によって、受け手に理解・共感・行動を促すこと、および実現することのできる言葉」でした。
コピーライターにしろライターにしろ、仕事として文章をつくるわけですから、その成否は「発信者の意図が受け手に伝わったかどうか」で判断されるでしょう。必ずしも綺麗な日本語である必要はなく、同時に難しい言葉や美しい言葉とその並びに長けている必要はないと思うのです。
ときに言葉とは、変化をします。時代とともに使われなくなる言葉があったり、新しい言葉が生まれたり。もしくは、過去の言葉が変化して、それまでとは違った使われ方や読み書きがなされることもあります。
これらは、日本語の乱れだと嘆かれるものなのでしょうか。それとも、日本語の進化であると納得すればいいのでしょうか。少なくとも言葉が変化しているのは事実で、ことライターの仕事に関して語るならば、伝わることだけが正義だとして、正しい日本語であることに意味などないのかもしれません。
本稿では、日本語の変化について考察してみます。あくまで私見であるため、日本語学者・言語学者および日本語の先生からは多くの指摘をいただくでしょう。各所からの批難を承知した上で、商業文章作成を生業としている身として、日本語の変化を許容する話を書いてみます。
『ら』抜き言葉は、日本語の乱れか進化か
日本語の変化として、いわゆる『ら』抜き言葉を目にする機会が多くあります。「『ら』抜き言葉ってなんだよ?」という方のために解説すると、「食べられる」を「食べれる」、「見られる」を「見れる」という用い方です。
動詞に可能の助動詞「られる」がついた「食べられる」「出られる」「見られる」などから「ら」を抜いた、「食べれる」「出れる」「見れる」などの言い方の称。文法的には破格。ら抜き表現。
引用:コトバンク
本来ならば(そもそも本来ってなんだという疑問はあるものの)、可能を意味する助動詞なので、『られる』と表記するのが正しいと考えらえます。国語の授業でも『食べられる』と習ったのではないでしょうか。もしかしたら直近の国語の授業では『食べれる』を丸にしている可能性もありますが。
マンガ肉でわかる、ら抜き言葉の正義
現代においては、『ら』抜きで使用されることのほうが一般的にも思います。わたし自身も、『ら』をあえて抜いて使うことがあるくらいです。なぜなら『ら』抜きの方が、意図を正しく伝えられることがあるから。たとえば以下のケースを考えてみましょう。
恐竜たちが現代に蘇った、もしくは人間が大恐竜時代にタイムスリップしたと想定しましょう。街のあちこちに恐竜がいます。ティラノサウルスがもう目の前。いままさに噛み付こうとしているシーンを想像してください。この瞬間を文章にするのならば、『凶悪なティラノサウルスがわたしを食べようとしている』となるはず。
しかし人類の進化はあなどれないもので、ティラノサウルスを打ち倒す兵器を所有していました。スマホサイズの最新兵器をポケットから取り出し、ティラノサウルスを一蹴します。倒したティラノサウルスをどうするかというと、こんがり焼いて美味しくいただくのです。
さて、このシュチュエーションですが、現代人からしたら「ティラノサウルスって美味しいの?」という疑問を持ちます。日本語で表記するならば、「食べられるの?」となりますね。この疑問だけを取り出してみましょう。勘の良い方ならお気付きの通り、「食べられるの?」にはふたつの解釈が可能です。
ひとつは「ティラノサウルスを食べることができるのか」という意味。もうひとつが、「ティラノサウルスに食べられてしまうのか」という意味。正しいとされている日本語表記の場合は『ら』を入れるわけですから、どちらの意味のときでも「食べられるの?」となります。
そんなときには『ら』を抜いてしまって、「食べれるの?」と聞いてください。『ら』抜きでかまいませんし、『ら』を抜いてもらったほうがわたしの身に危険がなくて正しいのです。よって、『ら』抜き言葉は日本語の乱れではなく、揺らぎでも横着でもなく、正当な進化であると思っています。現場からは以上です。