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名コピーライター鈴木康之さんから学んだ、人を動かすライティング術

言葉はときに、驚くべき力を持つ

あなたはどんな理由で、ライターの道を選んだのでしょうか。もしくは、これからライターになろうと考えているのでしょうか。稼げそうだから? 日本語で文章を書くならできそうだから? なんだかカッコイイ響きだから? そのどれがライターとして生きる理由でも、あなたの自由であり、正解ですよね。

わたし自身も、自分なりの理由と考えからライターを志しました。そういえば、わたしがライターになった理由を書いている途中でした。続きはそのうち書きたいと思っていますが、ここでは数ある理由の中からひとつを紹介させてください。

言葉の持つ力に魅せられたから。ちょっと気取った言い方をしてしまいました。つまりは、「言葉ってすごいよな〜」とウスらボケっと思ったからなんです。発言にしろ文章にしろ、そこで伝えられた言葉は、ときとして驚くほどの力を持ちます。なんて書くと、宗教チックにみえて敬遠されるかもしれません。でも、もう少しだけお付き合いください。

言葉と文章は、人生に影響を与える

コピーライティングを生業とした頃から、何人もの先輩コピーライターに憧れてきました。そのひとりに、鈴木康之さんという大ベテランがいらっしゃいます。東京コピーライターズクラブ(TCC)の会員で、広告学校や宣伝会議のコピーライター養成講座で講師を務める人物です。

著書に『名作コピー読本』があり、先輩ライターの勧め(というか完全に強制)で何度も読み返しました。まだ読んだことのないライター諸氏がいるのであれば、必読の書です。ちなみに同書から、ボディコピーの難しさと面白さと大切さを学んだことを思い出します。広告文を書くときは、キャッチコピーに気持ちを持っていかれがちですが、本当に上手いコピーはボディが素晴らしいんだと知りました。まぁ、とにかくすごいコピーライターなんです、鈴木さんは。

鈴木さんが講座の冒頭で語っていらっしゃった、とても印象深い話があります。まさに、言葉の力をまざまざと見せつけたエピソードです。かいつまんで記載しようと思いましたが、ちょうど別の書籍でご本人が書いていらっしゃいましたので、引用でご紹介します。

アンドレ・ブルトンが物乞いに贈った言葉

私は『ロスチャイルド家の上流マナーブック』(伊藤緋紗子訳/講談社文庫)で読んで膝を打って以来、よく文章教室のマクラに拝借している話です。フランスの詩人アンドレ・ブルトンがニューヨークに住んでいたとき、いつも通る街角に黒メガネの物乞いがいて、首に下げた札には

私は目が見えません

と書いてありました。彼の前には施し用のアルミのお椀が置いてあるのですが、通行人はみんな素通り、お椀にコインはいつもほとんど入っていません。ある日、ブルトンはその下げ札の言葉を変えてみたらどうか、と話しかけました。物乞いは「旦那のご随意に」。ブルトンは新しい言葉を書きました。

それからというもの、お椀にコインの雨が降りそそぎ、通行人たちは同情の言葉をかけていくようになりました。物乞いにもコインの音や優しい声が聞こえます。数日後、物乞いは「旦那、なんと書いてくださったのですか」。下げ札にはこう書いてあったそうです。

春はまもなくやってきます。でも、私はそれを見ることができません。

誰が見てもうらぶれた物乞いです。黒メガネをかけているのだから盲人であることも分かります。「私は目が見えません」は言葉の意味をなしていないのです。

アンドレ・ブルトンの言葉のほうには、訴えるものがあり、憐れみを乞う力があり、人に行動を促す力、もっとえげつなく言えば集金能力がありました。目的はそれだったのです。読んでもらって、施しの気持ちを起こさせ、施しをいただくこと。目的を果たしてこそ、言葉です。

鈴木康之著 『名作コピーに学ぶ 読ませる文章の書き方』より

アンドレ・ブルトンの逸話を伺ったとき、「これだ!」「おっしゃる通りすぎで涙がでる」と思いました。特に感銘を受けたのは、次のふたつのことです。

当たり前のことに対して『感銘を受けた』などと言っておるんだ、と諸先輩がたにお叱りを受けるのは承知の上で、ちょこっと解説させてください。

意味のない言葉のせいで、意味のある言葉が死ぬ

鈴木さんの解説にあるように、誰もが理解している自明のことは、わざわざ書く必要がありません。不要な説明、不要な言葉のせいで、本当に伝えたかった言葉や内容がかき消されてしまうのはもったいない。

あえて説明をしないと、読み手に正しく伝わらない。確かにそういう考えもあります。でも、過ぎたるは及ばざるが如しと申しましょうか。もっと辛辣な言い方をするならば、読み手の知識・知能を低く見積もり過ぎてはいけない。読んでいる人をバカにしていないか考えた方が良い。

確かに現代の人は、特に若い人でしょうか、活字を読まなくなったと言われて久しいです。でも文章を読まなくなったことで、理解力が落ちていると言えるのでしょうか。読書と理解力の相関があるのでしたら、無視できない条件です。中には、理解力を向上させる手段として、読書をオススメしている先生方もいらっしゃる模様。

個人的な見解として、読書によって培われるのは、理解力というより想像力じゃないかと思っています。特に漫画ではなく活字の読書をすることは、登場人物の容姿や舞台のディテール、物語の背景など、多くのことを活字をヒントに想像するのですから、想像力が鍛えられると考えても良さそうです。

話を戻しますが、過度な読み手の理解力が低いという前提に立つと、1から10まで説明しなくてはいけません。必然的に文字量が多くなるでしょうし、話が一向に進まず、肝心な情報が埋もれてしまう。だから一定は読み手を信じて、本当に不要な言葉や説明は省く方が良い。

ビジュアルとの差別化

広告コピーを書き始めたばかりの頃、先輩デザイナーからデザインを渡されて、空白に文字数と改行まで指定されてライティングすることがありました。制限に収めることはなんとでもできたのですが、それ以外の部分で苦労して書いたコピーを突き返されたことがしばしば。

「おまえの書いたこと、ぜんぶビジュアルでわかるだろ」と一蹴されたのを思い出します。例えば富士山の写真がビジュアルとして使われているときに、「富士は日本一の山」と書く。日本語のコピーであることからも分かるとおり、対象は日本人です。日本人のほとんどが、(写真を含めて)富士山を見たことがありますし、日本一高い山だということも理解している。

だのになのに、わざわざテキストで「富士山です。日本で一番大きい山でございます」と説明することの、なんという無駄よ。

文章は経済活動に貢献せよ

もうひとつ。当たり前過ぎてお恥ずかしいのですが(もしかしたら、わざわざ書くことが読者の皆さんをバカにしている?)、文章は人の行動に影響を与えるものであるはずです。こと広告コピーとなれば、目にした人を購買といった消費活動に促す目的があります。

自分の言いたいことだけを書き連ねた文章など、他人にとっては目障りでしかないのです。この記事を含めて、ブログや日記の類であれば、ある程度は自分勝手が許容されるでしょう。しかし広告コピーであれば、当然ですが、自分が思ったことを書くわけではありません。出稿主である企業が言いたいことを、コミュニケーションの代弁者として文章にするだけ。

Webライターとして記事を書いている場合も、お金をもらっているのであれば確実に、出稿者がかなえたい目的があるわけです。広告なり記事の読み手を動かして、経済を動かしてもらう。人とお金が動かない文章など、「チラシの裏にでも書いておけ」と叱られたことを思い出しました。

たかが言葉、されど言葉

言葉や文章で口に糊をしているわけですから、ペンは剣よりも強い、を信じたいものです。言葉ひとつ、単語ひとつ変わるだけで、人が心を動かされて、行動が変化する様子を幾度と見てきました。

言葉には、不思議な力がある。ときには魔力のように、人を縛り付けることもある。もっと言葉を大切にしたいですし、その力を信じていきたいなと思いました。できれば呪詛のようなネガティブな束縛ではなく、心踊るポジティブな祝福の言葉で。現場からは以上です。

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